月別アーカイブ: 2013年7月

レポート第二弾

この分野は、あまり得意ではないけど、与えられたテーマ。交渉を視点に書いてみました。
「TPP問題」について、、、、

 TPP問題は、まさしく国内外のこの問題に絡むもの同士の利益、権利、権力のぶつかり合に他ならない。そもそもTPP問題がなぜ急を要する問題になっているのかである。2009年オバマ大統領が突然言い出したことに端を発する。成長著しいアジアマーケットがアメリカの知らないところで成長するのを良しとするわけがない。日本としては、当たり前であるがアメリカに追い立てられる格好になるわけである。ここについては、交渉の余地があったのかは疑問であるが、時間的な問題で言うなら2013年の安倍政権まで何をやってきたのか?ということだ。これは民主党政権が在任期間中に内外に対し、しっかりとした交渉をしていれば、日本の主張を少しでも反映させた交渉参加への是非論となっていたのではないだろうか?この点はこれぐらいとして、中身ある問題に変えるとする。
国内の利益争いに目を向けると、焦点になるのが「JA Vs 経団連」この問題に関しては、農業側のある程度の自立性が求められると思う。経団連が賛成するのは皆がわかりきっていることだ。農水省が交渉のカードに日本の自給率が40%から14%なるとの試算をしているが、この算出方法に問題があると思わざるを得ない。これでは交渉に勝てない。また、今まで、蒟蒻芋1705%・米778%・バター360%・小麦252%、これだけの関税で守られていたということを、どう交渉に持ってくるかである。守られていたものいわばはしごを外されるごとくというイメージを見せない交渉が必要だ。もし関税撤廃となっても今と変わらぬ売り上げを確保すればいいことだ。但しそれには時代に残されてきた1次産業いや産業構造の在り方の問題に触れるべきではないか?法律で守られているなら参加の是非よりもその後の対応能力にフォーカスして交渉を進めてはどうだろうか?1次産業には問題が山積している、例えば時代に乗ってインターネットの活用といったところで使える人間は限定的だ。時間稼ぎかもしれないが、その時間の中に農業の将来が必ず見出せるはずである。また、仮に撤廃の道をたどる際には安全基準の問題が出てくるだろう。アメリカは間違いなく今後も日本に緩和を求めてくるに違いない。さすれば、日本は基準の緩和ではなく、基準の強化を提示するべきである。安全の確保はどの分野でも最重要課題である。食の安全が揺るがないよう農業側が、具体的水準また検疫ルールのイニシアティブを握る交渉に持ち込めばよいのではないか。この問題に最後に付け足すとしたら食料を海外に依存させていいものかどうかということだ。しかし、私は、日本人として日本の主食である米をはじめ様々な国内産のものが、海外の安価なものにすべてが押されるということはないと信じている。論理的根拠は全くないが、日本人のもつ大切なものまで失われるとは思えない。帰るべきところに必ず帰る。
さて、国外の交渉に触れるとしましょう。そもそも関税撤廃自由貿易というものはWIN-WINが成り立つ仕組みであり、そうでなければ誰も参加しない。自由貿易はマイナスが生じた人にお金を配ってでもプラスにする。プラス部分をどう再配分するのが政治だ。政治は国内の誰もが損をしない状況を作るのに、最善を尽くすのが仕事であると思う。現在の状況は前述した、農業が最後は黙るしかないという状況ではあるが。反対派がマイナス面を強調するためにISD条項(投資家対国家間の紛争解決条項)を持ち出すケースがある。しかし、簡単に言えばISDの最終解決方法は金銭であり国の制度や法律に対し命令などを出せるものではない。何か起きた時のお金の交渉であり、論点がぶれるような気がする。そもそも、それぞれの国ではそれぞれの弱点があるはずである。大国アメリカでも例外ではない。アメリカが嫌がっているのはアジア諸国がアメリカの知らないところで力を持つこと。絶対権力の立場を維持したいことが今回の参加是非の始まりとするならば、日本はASEANプラスや日中韓FTA等を持ち出すのも手ではないだろうか。もちろん、竹島問題、尖閣諸島等の問題があることは承知の上である。韓国は自国の農業は守る政策を取りつつTPPに前向きになっている。それはアメリカと自由貿易協定を結んだ際にコメは除外している。日本も端的に言えばコメ除外の交渉を毅然として行ってはいかがなものだろう。そうはいっても近隣諸国との諸問題を抱えアメリカの後ろ盾がないと立ち回れない日本の弱さはどうしようもないが、、、話を戻すとASEANプラスはアメリカの代わりに中国が入っている。両方に絡んでいるのは日本だけである。世界トップ3の経済大国、見方を変えれば一番都合のいいポジションにいるのは日本である。日本の交渉能力次第では他2国を操れる可能性もあるのではないだろうか?優れた交渉を発揮でいれば、WIN-WINの関係を構築も可能だろうが、不利な条件を一方的にのまざるを得ない状況であるならば、拒否すればいい。不参加という交渉をすればいい。しかしこれは国益という点で本当にプラスになるのかは疑問である。国益とは関係を含めた点である。参加するよりもさらに高度な交渉が求められるだろう。とすれば時間切れによる不参加。安倍政権はこれもにらんでの動きととっていいと思う。いかにも日本っぽくていいのでは。皮肉はさておきTPP不参加となっても項目別にFTA交渉をすれば安全保障への影響も最小にすることは可能ではないだろうか?もちろんタイミング、交渉カード等先に述べたとおり高度な交渉が必要なのは言うまでもないが。
 面白いコラムがあった。「TPPの短所はその平坦性にある。金魚も鯉も魚雷も「同じ水槽」に入れようかとする平等理論に他ならない。失ってはならない、傷つけてはならない伝統や品位、安全性、清浄性はこの日本にもたくさんある。」まさしくその通りである。出遅れての交渉参加、枠組みが決まっての交渉参加、時間が足りない中での交渉は不利に働くことが多い。大局で判断を急ぐのではなく、1つ1つ交渉を重ね自国の利益のみにとらわれることなく国際社会において互いに何がWIN-WINの関係なのかを見つけ出し進めることが大事だと思う。こういった話に「たられば」はナンセンスなのは承知だがもし白洲次郎が交渉に携わっていたらどんな結果になるのかと思ってしまう。そんな人物が必ず現れる日本の未来に期待したい。
 参考文献 TPP亡国論   集英社新書
      砂糖と安全保障  講談社

 読み直している間に流れてきた「案山子」~さだまさし~ 忘れてはいけないものが必ずありますよね~

ライシャワー氏って知ってますか?

レポートを書く機会があり、久々に気張ってみました。

参考文献「ライシャワーの日本史」

 「交渉と対話を通しての紛争解決が必要」ライシャワー氏の持論である。
1945年8月6日と9日、米国は完成したばかりの2個の原子爆弾を広島と長崎に投下した。20万人近い人命が一瞬にして失われた。一発目に広島に落とされた原爆は日本に対しての降伏やむなしだったのかもしれない。また同時に世界に核戦争の恐ろしさを認識させるに貢献した議論も成り立たぬでもない。しかし、長崎に投下される2発目は、この種の正当化は絶対に成り立たない。米国人のライシャワーの「交渉と対話を投資手の紛争解決が必要」という持論に非常に興味をそそられる。
 エドウィン・O・ライシャワーは1910年10月15日キリスト教長老派教会の宣教師のオーガスト・カール・ライシャワーの次男として現在の東京都港区白金台に生まれる。1910年は日韓併合の年でもあった。祖父は南北戦争で北軍に従事している。彼は16歳に米国に渡り、ハーバード大学大学院で学問に励む。ハーバードで彼は東アジアの研究をすることになる。1935年に日本に戻ると東京大学で研究をする。そのテーマは「円仁」であった。日本の仏僧円仁の日記の解明により博士号を授与される。その後、彼は東アジアに関する講座を開講し、政権のアジアに関する無知さから来る政策の誤りを本や雑誌、講演などで批判してきた。1960年「損なわれた対話」と題した論文を発表。「アメリカをはじめとする西側諸国は、日本の政府や財界の指導者層ではなく、野党や右翼、左翼活動家、知識人とも異端視することなく対話を重ね、日本の主流から外れた人々の実態や抱える不満を把握するべきである」と主張した。交渉と対話を重要視する彼のこの論文はジョン・F・ケネディー政権から大使館起用の白羽の矢が立つ。じゃやってみろということだったのかもしれない。1961年4月受諾した彼は駐日アメリカ特命大使として「日本生まれのアメリカ大使」として日本人の妻とともに人気を得ることになる。これは、今後様々な交渉をするうえでこの上ないメリットと言えたはずである。この時の日本人妻は2番目の妻である。前妻は急逝している、その後明治時代の元勲の松方正義の孫松方ハルと結婚する。このことは日本での交渉・対話を有利に運ぶ上での重要な要素になっている。大使に就任後、彼の目標は日米のイコール・パートナーシップの確立だった。在日米軍の占領者としてのメンタリティーの払拭、二国が対等なパートナーの関係にあることを当時の日本の政治のリーダーたちはもちろんのこと経済人、宗教関係者、労働組合関係者等と会談を行った。前述の在日米軍との交渉においては根気強い関係改善の交渉の継続により沖縄返還の大きな弾みとなっている。また、ライシャワーはこれまでの大使とは違い在任中に積極的に地方を訪問する。その際には妻ハルも同行させ市民との対話を積極的に行っている。このことはマスコミでも大きく取り上げられる。彼の対話交渉の基本はこんなエピソードにもうかがえる。羽田に国務長官を出迎える時間が迫る中、学生との交流を優先するがために「列車を乗り継いだら間に合う。学生と話すほうが大事だ。」ということで、大使が一般の列車を乗り継ぐという前代未聞のことをやってのけたのであった。そんな彼に逆風が訪れたのは1963年11月ケネディ暗殺後にリンドン・B・ジョンソン政権に代わったころからだ。ライシャワー大使時代は「ベトナム戦争」の時代であった。「ベトナム共産主義運動はフランスによる植民地支配へのナショナリズムの反発であり、中国とは関係ない。」と言っていた。ところがジョンソン大統領は外交政策に決定を下す準備がなくエスカレーションする道を選択してしまう。ライシャワー自身はベトナム戦争反対を主張したかったのだろうが、自らを抜擢したケネディ政権が始めたアメリカのベトナム戦争政策を起因とする日本人の反米感情の高まりへの対処に苦慮する。1964年3月ライシャワーは大使館門前で暴漢にナイフで刺され重傷を負う。その際輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し事件を政治事件にしなかったのも彼の素晴らしいところだ。退院後自分が辞任してしまうと日本人は事件の責任を感じてしまうと思い、その後も駐日大使として活躍した。しかし、ベトナム戦争が本格化し日本人の対米感情が悪化しつつあった上に、ベトナム情勢に対する政策に違和感を感じ、辞任することになる。彼の交渉・対話は辞任後も続く、南ベトナムの干渉、中華人民共和国の承認、沖縄返還、対韓国政策の再考などに発言。中曽根康弘首相や韓国の野党指導者の金大中に対しても様々な助言を行った。佐藤栄作のノーベル賞受賞の推薦文を記述している。
ハーバード大学日本研究所所長、同大学東アジア研究評議会理事、OECD理事、アジア基金理事として、退任後も日米間の関係を取り持ってきた。1964年襲撃により肝炎を疾患、持病となりその後何度も繰り返し、1990年肝炎が悪化し、79年の幕を閉じる。
ライシャワーの対話の陰には常に、利益、権利、権力をその時に最良のバランスでとらえ最良の方向に導いていると思われる。戦後の日本の改革を支えたのは、一致協力しての働く適応力、教育水準の高さ、高水準の行政能力、組織化の才能、工業生産の専門的知識、民主的制度の経験などであると思われる。ライシャワーが日本の将来に対し期待をかけたのは日本人をよく理解したからと思う。米国との交渉の陰には今なお利益、権利、権力が必ず存在する。それをライシャワーは協創という考え方そのもので常に対話を繰り返してきたのではないだろうか。ライシャワーは戦後日本に陰でとてつもない影響をおぼした1人であることは言うまでもない。過去の人物の中で影響を及ぼした人物はたくさんいるが対話と交渉で影響を及ぼす人物は多くないはずである。
 私は、恥ずかしい話あるが今回の課題に際し、はじめてライシャワーという人物を知ることになりました。交渉と対話の重要性も合わせて学ぶことになりました。本課題とはそれますが、もし歴史に戦争、紛争という史実がなく、交渉や対話によりすべてのコンフリクトが解消していたとしたら、素晴らしいことだったと思いますが、歴史は何によって語り継がれるのかと思ってしましました。おそらくライシャワー大使の貢献のすごさを知ってしまったことと、なぜ今まで知らなかったのかということのギャップからくる疑問のように思います。それはさておき、交渉と対話に強い意志と忍耐、そして何より常に多くの人と繰り返し行う継続それらの覚悟が必要なんだと改めて認識しました。日本に生まれた日本人より日本のことを考えたアメリカ大使、リスペクトします。